駐車場に車を止めると、アリオスは病院を見上げる。振り切ったはずの過去の場所。亡くした恋人の一件以来、避けていた場所。
もう二度と、戻るはずはない…ここを訪れることなどないと思っていた。

(本当の意味で決別するときってことか……)
 なれた足取りで、正面玄関に向かう。すたすたと病院内を進んでゆく彼に、若い看護婦や医師は戸惑った様子。だが、アリオスの
足は迷うこともなく、病院の事務室に向かう。建物自体は何も変わってはいない。記憶をたどらずとも、すぐにたどり着く。

 パタン! いささか乱暴にドアを開くと、中の事務員たちは戸惑ったような様子。見知らぬ人間が入ってくれば、当然の反応だろう。
まして、アリオスが病院を出た後、かなりのスタッフが入れ代わったのだ。恐らくは、キーファーの手回しで。

「あ…あの、何か?」
 事務員の一人がおずおずと訪ねてくる。
「キーファーはいるか?」
「あ、あの、お約束は?」
「キーファーがいるかって聞いてんだ。まず、そっちを先に答えろ」
 きつい口調と視線に事務員は怯えた様子を隠せない。
「事務長は……」
「私なら、ここですよ」
 パタンと、ドアが開いて、奥の部屋が出てくる、キーファーに事務員たちはほっと息を着く。
「これは、レヴィアス様。こちらに来られるのでしたら、ご連絡をいただければ、お迎えに上がりましたのに」
 丁寧な口調のキーファーはアリオスは静かに見つめている。“レヴィアス”と呼ばれた途端、事務員たちは顔を見合わせる。
「いまさら、どういうつもりだ?」
「何のことですか?」
「人ん家の家庭をかき回すんじぇねえって言ってんだ」
「何をおっしゃるのですか……。すべてはあなたのためです」
 悪びれもしないキーファーの態度にアリオスは苛立ちを隠せない。
「ここでは何ですので、応接室でお話しませんか?」
「……そうだな」
 ここではさすがに目立ちすぎる。何より、キーファーが“レヴィアス”の名で、アリオスを呼んだ時に変わった空気の流れ。それが
意味しているものは、恐らくキーファーの病院内での影響力であり、彼が何をアリオスに求めているかということ。


「……どうぞ」
 事務員の女性がコーヒーを置いてゆくと、応接室にはキーファーと二人になる。
「もう一度聞く。どういうつもりだ?」
「何がですか?」
 しれっとした口調。
「アンジェに余計なこと吹き込んだんだろうが」
「……余計、ですか?」
「ああ、余計なこと…だ」
 今まで、二人はうまくやっていたというのに。アリオスの過去を話すことをしなくても、二人は二人でいられたのだ。
「お言葉ですが…あれくらいであの小娘が動揺するような仲なのでしょう?」
「……!」
「そんな脆くて、あやふやな関係なら、壊してしまった方がましではないのですか?」
 クスクスと笑いながら、キーファーは告げる。
「確かにあの小娘にあなたの過去を話しはしましたよ。ですが、私の言葉を無視することもできたはずです。カインあたりに相談すれば、止めるでしょうしね」
「あいにく、あいつはそんなに素直に聞く性格じゃなくてな。それに、あいつがお前を避けても、あいつの耳に入るようにするだろうが」
 それが彼の戦略だったから。必要でないものはすべて切り捨ててしまう。エリスの一件を追求する手筈を整えたのも、レヴィアスが
この病院の院長の椅子に相応しい、その理由のためだけのために彼はあの一件を利用したのだ。ただ一つの誤算は、すべてを
終えたレヴィアスが病院から姿を消し、遠い親戚にあたる医師に病院の再建を任せて、姿を消したことだった。

「あなたには相応しい場所がある。それだけの腕を持ちながら、どうして町医者のままで終わるのです? それに、あの小娘にしても。
いずれはあなたの元から消えるかも知れない。あなたとは違う相手を選ぶかも知れない。そんな不確定な相手だ。それに…所詮は
小娘。あなたにはもっと相応しい相手がいるでしょう?」

「生き方も何も、俺に相応しいかどうかは俺が決めることだ。お前には関係ないだろう」
 今の生き方は自分が自分でいられる。あの時のように、すさんだ心でなくて……。何もかもがどうでも良かったあの時。
「……。あの小娘があなたの意のままになるとでも? まぁ、育ててもらった恩は感じているようですね。頭がいい娘なら、あの看護婦の
代わりにでもなるでしょうが」

「アンジェリークはアンジェリークだ。エリスとは何も関係がない」
「では…お聞きしますが。なぜ、あの小娘を側に置くのです? 所詮、小娘は小娘。あなたのお役に立つはずがない」
「……バカか」
 役に立つとか、そんなことではない。もし、あの日、あの時、あの場所で。互いに雨でずぶ濡れになった二人。孤独を抱えた二人。
『俺と来るか……?』
 無意識にさしのべた手。
『行くわ、私……』
 さしのべた手を取った小さな少女。そこから始まった二人。もし、出会わなければ、どうなっていただろう。もし、独りでなければ……。
きっと、今の二人はない。いや…アンジェリークはそうでなかったのかも知れない。

(俺は……?)
 少女の存在に救われたのは紛れもなく自分自身だとアリオスは気づく。ちょっとしたことでムキになる少女をからかって。何気ない
ことで笑いあって。一緒に楽しんで。何もかもをなくし、もう二度と笑えることがないと思っていた彼の心に光を灯したのは……。

「ああ…そうか……」
 馬鹿馬鹿しい。どうして、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのか。いつも傍に居ることが当たり前だったから。こうして、誰かに
指摘されるまで気づかないだなんて。いや…指摘する必要もなかったのだ。互いがいるのがいつのまにか当たり前になっていて。
そんな自分を笑うしかない。

「レヴィアス様?」
 不意に笑い出したアリオスにキーファーは戸惑う。
「ああ…あんまり馬鹿馬鹿しいことに気づいてな」
 口調とは裏腹に視線が鋭くなっている。
「馬鹿馬鹿しい?」
「ああ、お前がやってることにも、俺自身にもな……」
「それは……」
 キーファーが言葉を紡ぐ前にアリオスはその鋭い視線で何も言えなくさせてしまう。
「お前は誤解してんだ。あいつに俺が必要なんじゃない。俺があいつを必要としてるんだ」
 そう、自分が今の自分でいられるのは紛れもなく、アンジェリークの存在があったから。アリオスと出会うことがなくても、勝ち気で
しなやかな少女はきっと、自分を失うことなく、生きていけたに違いないと思う。だが、自分はアンジェリークと出会えたから、もう一度
歩き出す気になったのだ。独りだった少女に手をさしのべたのは、自分もまた独りだったから……。

「レヴィアス様、何を……」
「言った通りだ。俺があいつを必要としているから、側に置いている。あいつがどう思ってるかなんか、関係ない」
 そう言うや否や、アリオスはキーファーの胸倉を掴む。
「く……」
「アンジェが俺から離れたいって願ったら、その時はその時だ。だがな、他人にかき回されるのはムカつくんだ」
「レヴィアス様……」
 鋭く、激しいアリオスの眼差しにただ圧倒される。絶対的な、他の誰の支配をも許さぬ瞳。それを前にして、息を呑むしかない。
「それに断っておくが。俺はアリオスだ。気の置ける連中とつるんで、医者をやっているただの男だ。二度と、その名で呼ぶな」
 そう言い切ると、アリオスは胸倉を掴んだ手を離して、キーファーをソファに倒れ込ませる。
「……それで、あなたは満足だと言うのですか? 望めば何もかもを手に入れることができると言うのに!」
「生憎、俺は他人にお膳立てしてもらって、それに乗っかるようなバカじゃない。満足かそうでないかは、俺が決めることだ」
 そう言い捨てると、アリオスはドアに向かう。
「なぜ、あんな小娘のために……」
 その言葉に、扉の前で立ち止まって、アリオスは振り返る。
「小娘じゃねえよ……。あいつはアンジェリークは、俺が望んだ女だ」
 不適な笑みを浮かべ、そう言い放つと、アリオスは今度こそ、部屋を出ていった。
「……馬鹿な」
 一人、部屋に残ったキーファーは苦々しげに顔をしかめる。すべてはレヴィアス様のため、そう信じて動いたのだ。 だが、それは
アリオスの意志でなく、彼自身の望みに過ぎないことを彼はわかっていない。誰かの人生を自分の思い通りに動かすことなど、でき
ないのだ。自分の生き方を決めるのは自分自身でしかないのだから。そのことをキーファーは忘れていたのだ。

「私が間違っていたのか……?」
 きっぱりとはねつけられた拒絶。切り捨てるような瞳。あんなに激しい瞳は見たことがない。とてつもない虚無感にキーファーの身体は
脱力し、ソファに沈み込んだ。

 やっと、アリオスが大事なものに気づきました。そこにあるのが当たり前だから、気づけないものってあると思うのです。キーファーが
殴られるの期待してた(約1名いる。ね、○○さん)方、ごめんなさいね。

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