その日の朝はどんよりと雲が重い印象の空。それはアンジェリークの今の心境そのものである。
クシュン! 派手なくしゃみ。
「やだ…風邪かしら……」
少しばかり熱っぽい感じがする。結局、あれからなかなか寝つけなくて。寝不足気味も手伝って、最悪な体調である。
「だから、湯冷めするって言ったんだ。ほれ、薬」
「若いから大丈夫だと思ったのよ……」
そう言いながらも、アリオスの出してくれた薬を飲むアンジェリークである。
「そんな体調で今日は出かけるのか?」
体調が悪いのだから…と暗に言ってきているのが長年のつきあいでよく判る。素直でない言い方。彼らしいと言えば、
彼らしいのだが。
「うん。約束があるの。お昼は冷蔵庫の中だから。適当に食べててね」
「男か?」
「まさか」
笑顔で精一杯ごまかしてみる。まさか、アリオスの過去を知る人間に会うだなんて、本人を目の前に言えるはずがない。
「今日は降りそうだからな。傘、もってけよ」
「うん……」
パシッと投げられた折り畳み傘を受け取るアンジェリーク。だが、その足取りはかなり重い。それは体調のせいだけで
なく、漠然とした不安のために。だが、それでもアンジェリークは約束の場所に向かうのであった。
約束の場所は駅前の喫茶店であった。アンジェリークが着くと、すでにキーファーは席に着いていた様子。
「ごめんなさい。お待たせして」
「いや…習慣でね。約束の時間より十分前に来るだけですので」
口調は丁寧だが、やはり油断できない何かを感じて、自然とアンジェリークは身構えてしまう。
「何か飲まれないのですか?」
「あ、はい。すみません、アイスティー。ストレートで」
ウエイトレスが注文を受け、その場を去ると改めて向かい合う形になる。ブランド物に身を固めた彼と普通の女子高生の
この取り合わせは援助交際と受け取られかねないなぁなどと考えてしまう。
「どうしました、落ち着かない様子ですが?」
「いいえ、別に!」
気遣うような言葉とは裏腹な冷たい口調。だから、アンジェリークの方も突っぱねる言い方になる。それが彼女の精一杯の
強がり。その様子にキーファーはフッと笑う。余裕綽々といった様子。嫌な笑顔だとアンジェリークは思った。
「まぁ、いいでしょう。本題に入ります」
そういうと、キーファーは懐から一枚の写真を取り出す。
「ご覧になってください」
言われるままに写真を手にとる。古い日付。十年くらい昔のものだろうか。その中に写っているのは……。
「アリオス?」
アンジェリークと出会う前の現在より若いアリオスの姿。どこか、幼さを感じさせる。そして、もう一人の人物は……。
(私? ううん、違う……)
アリオスとともに幸福そうに笑っている少女。髪の長さが違うだけで、あとはアンジェリークに瓜二つと言っても過言では
ない。その少女と写っているアリオスの瞳はとても優しい。
(誰……?)
自分に瓜二つの少女と写っているアリオスの古い写真。知らないアリオスの表情。戸惑う少女にキーファーは満足げな
笑みを 浮かべる。
「彼女の名はエリス……。レヴィアス様の恋人でした」
「レヴィアス?」
聞き慣れない名前。
「あの方の真の名ですよ。レヴィアス・ラグナ・アルヴィース。それが、あの方の本当の名です……」
「本当の名前……」
どこか遠くの感覚で、その言葉を反芻するアンジェリークであった。
「そう、あなたが知っているアリオスは本当のあの方ではない……」
「……」
心臓が高鳴る。キーファーは淡々と続ける。
「その方はかつて、レヴィアス様の恋人だった女性です」
「かつて? 現在は?」
「亡くなられたのですよ。今は冷たい土の中です」
「……!」
思わず、写真から目を離し、キーファーを見つめる。彼は唇の端をわずかに歪ませ、笑みを見せる。まるで、こうなる
ことを 狙っていたかのように。
「まずはあの方のことからお話しないといけませんね。あなたが知らないあの方のことを……」
「私の知らない……」
無意識に息を呑む。引き返すのなら、今だと心のどこかで訴えてくる。だが、彼女にはそれができなかった。
「あの方はある病院の経営者の一族の一人でした。本来ならあの方の父親が院長になるはずでしたが、医師としても、
経営者と しても、能力が足りない人物でね。いわゆる権力争いに負け、あの方の叔父にあたる者が院長をしていたので
すよ」
「……」
「父親は権力の座から離れていても、名前ばかりの副院長としてそれなりの収入を保障されていましたからね。ですが、あの
方は 父親に似ず、優秀な人物でした。十八歳で医大を卒業したのですから……」
それは知っている。若いにもかかわらず、個人で医院を経営し、それなりに食べていけるのは、彼の腕あってのこと。医師と
して 優秀でなければ、それは不可能だ。
「まぁ、父親がああですから。閑職に甘んじていた。どれほど、医師として優秀であってもね。それがどれほど、あの方を苦し
めて いたか……」
「あなたはその頃から、アリオスを知っているのね」
あえて、レヴィアスと呼ばないところが彼女の精一杯の抵抗。彼女にとっては、アリオスはアリオスでしかない。今更、どんな
呼び方をしろと言うのか。
「ええ。私はその頃は一介の事務員に過ぎませんでしたが……。あの頃のあの病院は縁故主義が蔓延していた。権力のある
人間に 気に入られた者だけが、出世をする……。腐った体制でしたね」
どこか苛立たしげな言葉。アリオスもこんな気持ちだったのだろうか…と考えてしまう。
「だが…あの方の前に一人の少女が現れた。それが彼女ですよ。あなたによく似た……」
「この人が……」
「名はエリス。まだ、新米の看護婦でした」
よく見れば、写真の中の彼女はナース服を着ている。その傍らのアリオスはラフな格好の上に白衣。今と変わらない。
「よく働く看護婦でしたね。夜勤にも嫌な顔一つ見せずに……。あの方のもとでよく働いていました」
アリオスのもとで働いていた…その言葉がどこか遠くで感じられる。どんな顔を見せていたのだろう。そして…この少女は
どんな アリオスを見ていたのだろう……。知らない時間。
「扱いにくい…と、敬遠されるあの方のもとでよく働いていた彼女にあの方もいつしか……。あなたと同じように、何一つ持た
ない 小娘に……」
「その言い方って……!」
自分のことを言われるのなら、ともかく。今はもう亡くなった人物に対して失礼ではないだろうか。
「ああ、すみません。そんなつもりで言ったわけではありませんが。そう聞こえたのなら、そうなんでしょうね」
丁寧すぎて、却って嫌みにすら思えてくる。
「あの方との仲はいつしか病院の中でも噂されました。あの方が笑顔を見せるようになったと驚きが先行してましたがね」
そこで、キーファーは一旦言葉を切る。無意識に、アンジェリークは息を飲む。
「ですが…そんな日々も長くは続きませんでした。ある事件が起こってね……」
「ある事件……?」
「ええ……。ある意味、あなたと出会うきっかけとも言えるかも知れませんね……」
キーファーの微かに浮かぶ冷たい笑み。ゾクリとしたものを感じながらも、アンジェリークは息を呑んで次の言葉を待った。
すみません、だいぶ期間が開いちゃいましたね。ああ、ごめんなさい。さくさく進めるように努力します〜。この話のキーファー、
どうかなぁ。ドキドキ。
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