山羊座のスピードメーター

お兄ちゃんだから、我慢できるわね』
『あなたはお兄ちゃんなんだから…しっかりしなさい』
 広瀬海は物心着く前からこの言葉を聞かされていた。妹の渚とは年子である。おむつの取れる前から、歩き出す前
から…である。そのせいもあって、その言葉になんら疑問を持つことなく育った。

「だからかなぁ……。あの人が人間らしくないの……」
 グラスを傾けて、渚が溜め息を吐く。
「渚ちゃんの考え過ぎじゃねぇのか?」
「炎にはそう思えるの?」
 ここはとある居酒屋である。値段は安くて、味はいい。二人ともまだ未成年だが、それはそれでいいとしよう。学部は
違うが、炎も渚も同じ大学のため、よく顔を会わせる。今日は二人で新年会をしようと、この居酒屋に来ていた。もうすぐ
海の誕生日だという話をしているうちに、こんな話題になってしまったのだ。

「あの人は小さい頃から『お兄ちゃん』だったんだ。それこそ、片手の指だけで数えられる頃から……。あたしがわがまま
言って、両親を困らせるたびに、困った顔して……。あの人のわがまま言ってるところ、見たことないんだもの」
「まぁ、偉そうにしてるところは数多く見てんだけどな……」

 高校時代のことを思い出し、炎は苦笑する。竹刀片手に追いかけ回された。
「あの人は『お兄ちゃん』で、広瀬家の跡取りだもの。だから…小さい頃から、あの人は礼儀をたたき込まれたのよ。その
せいもあるんだとは思う。」

 グラスの中身を全部あおってしまうと、渚は頬杖をつく。
「せめて誕生日が一日でもあの人より早かったら、少しだけでも同じ歳になれたのになぁ……」
 年子だから丸々一年、年齢が離れている。たった一年の差が渚にはとても遠く感じられている。
「そうしたら…あたし、あの人に全部背負わせなかったのに……」
「渚ちゃん……」
 その言葉に炎はクスリと笑う。堅物人間の海と自由奔放な渚。まるきり正反対の性格だから、渚は海によく反抗している。
だが、なんだかんだ言って、海のことを思ってるのだ。たぶん、海もそうなのだろう。

「何がおかしいのよ……」
「いや…渚ちゃん、やっぱり優しいよな。兄貴想いでさ……」
「……。そ…そんなことないわ! おじさん、これお代わり!」
 真赤になりながら怒鳴る。、新しいグラスが届くと、煽ってしまう。今夜はずいぶん飲むことになりそうだと思いながらも、
炎もつきあうのであった。



 そして、深夜。海は渚の帰りが遅いのを心配しながら、リビングで本を読んでいた。
『あの子は平気でしょう』
 両親は半ば匙を投げているが、やはり彼にとっては大事な妹である。
「十二時か……」
 帰ってこないなら、こないで連絡を送ってこないには溜め息を吐くしかない。だが、家の前でタクシーが止まる音に気づき、
海は玄関まで向かう。しばらく、するはドアホンの音。

『渚か?』
『いや、俺。悪い、渚ちゃんと飲んでて。こんな時間になっちまった。渚ちゃん、酔い潰れちまってさ、開けてくんないか』
『炎……』
 一緒だったのが炎だとわかり、海は溜め息を吐く。渚は炎のことを気に入っているので、よく一緒に遊んでいるのは知って
いる。おそらく自分よりもずっと仲が良いのであろう。口には出さないが、炎と一緒ならいいだろうとすら思っているのだから。

『わかった。今、開ける』
 玄関の鍵を開けると、酔い潰れて眠っている渚を背負った炎の姿。
「まったく、仕方ない奴だな……」
「あ、起こしたら可愛そうだし、このまま背負ってってやるよ。部屋まで案内してくれよ」
「ああ……」
 渚を部屋までつれていき、ベッドに寝かせてから、部屋を出る。
「年頃の男女がこんな時間まで……」
「悪い、悪い。渚ちゃんと話し込んでたら、ついこんな時間になっちまって。タクシー代は出しといたから」
「そう言うわけには行かないだろう。渚も同罪だ。目が覚めたら、伝えておく」
 きっぱりと言い切ってしまう海に炎は苦笑する。
「渚がすまなかったな。私はあれに嫌われているからな、せいぜい愚痴に突き合わされていたのだろう」
 珍しく頭を下げてくる海にきょとんとする炎。
「んなことねぇよ。むしろ、逆。渚ちゃん、おまえのこと心配してたんだから」「渚が私の心配?」
 今度は海がきょとんとする番。炎は悪戯っぽく笑ったまま。
「海は『お兄ちゃん』だから、色々背負いすぎてるって。自分が同じ歳だったら良かったのに…ってさ」
「別に私は背負ってなど……」
「おまえが堅物過ぎるからだろう? 自分がわがまま言っても、海がわがまま言わないのは、そのせいなんだろうって……」
「渚がそんなことを……」
 まさかこんなことを考えているなんて、考えたこともなかった。いつも自分に反発してばかりだと思っていたのに。
「でも、違うだろ? 海は好きでそう言うスタイルとってると俺は思ってんだけど」
 その言葉に海は少しだけ思考を巡らせる。
「…というより、その方が楽だったからかも知れないな……」
「楽?」
「下手に逆らうのはけっこうきついだろう? 高校時代は私に逆らってたおまえなら、わかるとは思うのだが」
「う……」
 この言葉には何の反論もできない炎である。
「そういうことだ。わがままが言える渚がうらやましかった時期もある。だが、これが私なのだから、仕方あるまい。私とて
もう子供ではない。自分の意志でこうしているのだから。渚が気に病む必要はないのだ」

「そうだよな。それが『広瀬海』だもんな」
「そう言うことだ」
 海の瞳には迷いも戸惑いもない。彼は彼があるがままなのだ。
「近すぎて、渚ちゃんには見えないんだな」
「私に渚が見えないのだから、仕方あるまい」
 そう言うと海は笑みをこぼす。こんな話を誰かとしたことなんてなかった気がする。それでも、ずいぶんと変わりはした。
「でも、うらやましいな。俺、一人っ子だし」
「いればいるで、苦労するものだぞ」
「まぁ、海みたいな兄貴なら、遠慮するけどよ」
 パン!と海の背中をたたいて、炎は笑う。
「海は海だもんな! 口うるさくない海なんて、海じゃないって」
「口うるさいは余計だ。だが、随分と遅くなってしまったな。よければ、泊まっていくといい。明日の朝食ぐらいは用意しよう。
渚が世話になったからな」

「ラッキー! 海んとこの朝飯ってバリバリの和食だもんな」
 いつもコーンフレークやパンの炎には眩しいくらいのご馳走である。
「でも、今は海の入れたコーヒーが飲みたいんだけど、俺」
 悪戯っぽく見上げてくる瞳。わざとらしく、海は溜め息を吐く。
「まったく……。まぁ、いいだろう。私も入れようと思っていたところだ」
 口ではそう言いながら、笑みがこぼれている自分に海は気づいている。今はもう少し、炎と話がしていたい。そんな気分だ
から。やがて、リビングにコーヒーの香りが漂ってゆくのであった。


久々のダグオン。しかも、海と炎の話。別に趣旨替えしたわけじゃないから。しかし、久しぶりに書いた海は…。なんだか、
子安武人さんの声から離れているような気がしてならない…。