オアシス
| 「…………」 目の前の浮遊物体――――否、少女を、ジュリアスは複雑な心境で眺めていた。 「オスカー」 「はっ!」 傍らの、信頼できる片腕を呼んでみたものの、ジュリアスはとっさに次の言葉を口にはできなかった。 まさに、できなかったのだ。 少女の突飛な行動に、頭がついてゆかなくて。 傍らで息を飲む気配。困惑。戸惑い。 片腕たる青年も、ジュリアスと同じ心境でいることが伝わってくる。――――どことなく笑いを堪えている 節があることに、今回は気づかぬ振りをしておくが。 「……なにをしているのだ、そなたは?」 躊躇いながら口にした問いかけに、にっこりとした笑顔を返された。 まさしく天使の笑顔で。 ぱたぱたと軽く羽音を響かせて、天使は手を動かし続ける。 それはそれは楽しげに。そして嬉しそうに。 「…………」 呆然と天使の行動を眺めつつ、ジュリアスはどうしたものかと首を巡らしかけて止まる。 動くに動けないことに気づいたのだ。 「オスカー」 「はい、……どういたしますか、ジュリアス様」 「………………呼んできてくれ」 不本意の文字を背中に背負い、ジュリアスは実に気の進まない声でそう言った。 オスカーが軽く苦笑ったことにも、目を瞑ることにする。 自分の今の姿で怒鳴っても迫力に欠ける、ということを、哀れかなジュリアスは良く知っていた。 「御意」 恭しく一礼したオスカーが踵を返そうとしたのと同時に、ジュリアスの執務室のドアがノックされた。 ノックの音。ドアの向こう側にいる人物に察しを付けて、ジュリアスは「入れ」 と短く告げた。 「失礼いたします」と入ってきた穏やかな口調の中に、しかし隠しきれない慌てた気配。 執務室に足を踏み入れた水の守護聖は、眼前の光景に一瞬途方に暮れた顔をした。 「…………」 「…………」 「…………」 言い表せないほどの緊張に包まれた執務室の中を、ぱたぱたと呑気な羽音を響かせて天使が飛んで いる。 「…………リュミエール」 「あ、はい」 珍しく動揺を露わにした声音が、申し訳なさそうな視線とともに向けられた。 「口うるさく言うことではないことだと、私も理解している」 ジュリアスはなるべく冷静な態度で、と自らに言い聞かせながら口を開く。 対してリュミエールも、神妙な顔で「はい」と頷いている。 それを満足そうに見返し、ジュリアスは威厳ある口調で言った。 「しかし、私はあやつの実験台ではない。断じて、違う! 練習をして良い相手とそうでない相手だけは はっきりとさせておくように!」 「はい、申し訳ありません、ジュリアス様」 殊勝に頷き、リュミエールは天使を呼んだ。 「アンジェリーク、こちらへ」 柔らかく呼び手を差し出すと、アンジェリークがゆるゆると首を振った。 満足していない、と言うことだろう。 普段天使に甘いリュミエールだが、今回ばかりは天使のしたいままにさせておくことはできない。 してはならないのだ。相手が相手だけに。 「さぁ、こちらへいらしてください、アンジェリーク。クラヴィス様があなたをお待ちですよ」 ジュリアスのこめかみがぴくりと震えたことに、賢明にも水の守護聖は気づかぬ振りをした。 愛らしく、愛しい天使。 だが、ここで。この場所でだけはその愛らしさも通用しないということを、今後教えておくようにしなければ ならない、と心中で彼は思っていた。 闇の守護聖の執務室とここでは、なにもかもが違うのだと言うことを。 「アンジェリーク」 再度呼ぶと、天使が名残惜しそうにリュミエールのもとへと飛んできた。 後ろ髪を引かれています、といった顔でジュリアスを振り返り、お願いするようにリュミエールを見つめるが …………。 リュミエールは緩く首を横に振った。 しゅん、と天使が気落ちする。 「アンジェリーク」 溜息一つ落として、ジュリアスが天使を呼んだ。 ぱっと顔を輝かせた天使が、ぱたぱたとジュリアスのもとへと飛んでゆく。 期待に輝く瞳を向けられたジュリアスは、ふっと僅かに表情を和らげた。 「私の髪を結うことはさせてやれぬが、……仕事の邪魔にならぬ程度にであれば、遊びに参れ。 ――――さがって良いぞ、リュミエール」 軽く目を瞠ったリュミエールから視線を逸らし、ジュリアスは言った。 「はい、失礼いたします、ジュリアス様」 アンジェリークをともなったリュミエールが退室すると、ジュリアスはほっと息をついた。 傍らの青年にも退室をするよう言う。 執務室にひとりになったジュリアスは、背もたれに体を預けた。 「……あれのための練習台などと、二度とごめんだ」 疲れたように息をつき、ぽそりと零すは本音。 この世界の中で、一番大嫌いな片割れ。 一番信頼している、片割れ。 しかしだからといって、身代わりにされるのはごめんだ。 ましてあの天使に。 汚れなき天使が闇の守護聖の髪を結うのがお気に入りだとは、あまりにも有名なこと。 覚え立ての三つ編みでもっと上手く結いたいがために、天使が色々な人物で練習をしているのも有名な こと。 「あれのためでなければ私は喜んでいたのかも知れぬな」 ジュリアスは自嘲気味に口元を緩めた。 END |