おだやかなご馳走


 その家を訪れた時、暖かなシチューの匂いがキッチンから漂ってきたことが第一印象だったと言うと、意地の悪い青年は『食い
意地が張っているから』と笑った。

「あら、かわいらしいお嬢さんだこと……」
「は、初めまして」
 緊張するアンジェリークに対し、優しそうな老父人はにこやかな笑顔を見せる。
「お名前はアンジェリークだったわね。アリオスに話は聞いたのよ」
「は、はぁ……」
 何を話したんだろう…中身は非常に気になるが、何となく墓穴を掘りそうな気もするので、あえて何も聞かないことにする。
「何だか、息子が恋人をつれてきた気分ね。待っててね、もうすぐ、食事ができあがるから」
「あ、お構いなく……」
 出されたお菓子は素朴でどこか懐かしい味。紅茶もいい香りがする。
「優しそうな方ね……」
「どうだか。俺には口うるさいババァにしか聞こえないけどな」
 そう言いながらも、どこか楽しそうな口調。それはまるで自分の母親に対する照れ隠しのしようなイメージ。
 ここはアリオスがアルカディアで身を寄せている家。老夫婦の家の離れをアリオスは間借りしている。記憶がない状態でさま
よっていたところをこの家の主である老人が見つけ、成りゆきでここで暮らすことになったという。普段は老夫婦では手が余る力
仕事を引き受けたり、酒場で働いていたりしているのだ。

 アンジェリークがこの家を訪れるきっかけは何気ない会話から始まった。アルカディアの郷土料理だと言うラム肉のシチューの
話を聞いて、食べてみたい…と言ったのは数日前。そして、今日、いきなり何も聞かされずに連れてこられたのだ。

「私、お手伝いしなくてもいいのかな?」
 台所の様子が気になる。
「いっとくけどな、つまみ食いをしたら、うるさいぞ」
「そう言う意味じゃないわよ〜」
 からかう青年の言葉にアンジェリークはむっとする。そんな彼女の表情をアリオスは思いっきり、楽しんでいて。
「こらこら、アリオス。いたいけなお嬢さんをからかうでない」
 窓の外からの声。振り返ると、仕事帰りらしい老人の姿。
「ほぅ…いい子じゃないか。わしが後十年若ければなぁ……」
「その頃にはもうかみさんがいただろうが」
「いや、かみさんとこんな可愛い娘が作れただろうな…と」
「ったく……」
 どこか楽しそうな会話を交わしているアリオスの表情はとても自然で。彼がここで心穏やかな日々を過ごしていると言うことが
わかる。自分の知らないアリオスの顔がここにある。嬉しいけれど、少しだけ、複雑で。

「ほら、食事の用意ができたわ。いらっしゃい」
「おう。ほら、来いよ、アンジェリーク」
 差し伸べられたては大きくて、暖かくて、ほっとする。穏やかな時間を共有できる喜び。
「さ、どんどん、食べてね」
「はい、美味しいです〜」
 ラム肉のシチューに焼き立てのライ麦パン。取れ立ての野菜で作られたサラダ。暖かな、どこの家庭でも味わえるような味で
いて、この家でしか味わえない味。どんなご馳走もきっとかなわないのではないか…と思えるほど。心づくしの料理に、少しの
アルコールと、楽しい会話という名の調味料を添えて。楽しい時間は緩やかな、しかし、早々と過ぎていった。

「どうも、ご馳走様でした」
「いえいえ。喜んでもらえてうれしいわ」
 何もしないのでは、さすがに申し訳なくて。洗い物の手伝いを申し出たアンジェリークは老婦人と二人並んで、洗い物をしている。
「私たち夫婦には子供がいたんだけど、随分昔に亡くなったの。あのくらいの歳で亡くなったから、彼を見つけたときに、どうしても
放っておけなかったの」

「……そうだったんですか」
「記憶がない頃はね、どこか不安定な瞳を時々見せていたわ。このまま消えてしまうんじゃないかって……」
「……」
 それはアンジェリーク自身が感じていた不安。
「でも…あなたを見て、安心したわ。口ではなんて言ってるかは知らないけれどね、あなたのことが大切で仕方ないって顔して
いるもの」

「アリオスが……?」
 第三者から見た自分たちの関係を聞いて、少しばかり戸惑うアンジェリーク。
「ええ…とってもお似合いだわ。きっと出会うべきもの同士だったのね」
 洗い物を流し終えた老婦人は穏やかに微笑む。そして、エプロンで手を拭いて、アンジェリークの肩にポンと手を置く。
「男の人はね…時々とんでもない方向に流されたりもするけれど、それは帰ってくる場所をちゃんと知ってるから、できることな
のよ。主人もそうだったし。あなたはアリオスの帰るべき場所なのね」

「そんなこと……」
「あるわよ。あなたが気づいていない、あなた自身の魅力がね。彼を捕えて離さないんだから」
 信じられない…という顔をするアンジェリークを優しい眼差しで見つめている。どこか彷徨いがちな雰囲気のアリオスを繋ぎ止めて
いるのは紛れもなくこの少女。端から見ていても、ずっとわかるのだ。アリオスがどれだけこの少女を大切にしているのかが……。

(幸せな恋人同士ね……)
 二人の幸せをそっと心の中では祈らずにはいられなかった。

「じゃあ、今日はご馳走様でした」
 あまり夜遅くなると、レイチェルが心配するから…と、早々と帰宅するアンジェリークを玄関先まで夫妻は見送ってくれた。
「俺が送っていくからな」
 さりげなく肩を抱いているアリオスの独占欲に夫妻は顔を見合わせて、クスクス笑う。どこから見ても、この二人は恋人同士に
しか見えない。

「ありがとうございました」
「いいえ。またきてちょうだい」
 何度も振り返りながら、手を振るアンジェリークを夫妻は微笑ましく見ていた。
「ありがとう、アリオス。今日は楽しかったわ」
「ああ。上手かっただろ?」
「うん。お母さんの味って言うのかな。そんな感じ」
「じゃあ、おまえも作れるようになってくれよ?」
「……」
 さりげなく言われたその言葉の意味を図りかねるが、アリオスは気にしてもいない。
「頑張ってはみる……」
 大好きな人の好物くらいは作れるようになりたい。
「期待はしてねぇけどな」
「何よ、それ」
「とりあえず、今のところ食えるもんはこれくらいだな」
 フワリ…と掠めるように口づけられる。
「あ、アリオス〜」
 真赤になって、抗議しようとするが、アリオスはどこ服風邪と言った顔。
「何度食っても飽きねえ味だからな」
「バカ〜」
 少女の叫びはアルカディアじゅうにこだましたとか、しなかったとか……。

ラム肉のシチューが好きって、ラブチャットで話してましたよね。真っ先に思いついたのがおふくろの味…でした。家庭料理に餓えてた
人だもんな……。ああ、だから、あたしは世間とは違うんだね〜


‖ <Going my Angel> ‖