Cosmos

 遠い彼方の記憶にある季節は秋。広がる淡いピンクの世界。コスモスの花が咲き乱れる中にあの人はいた。けれど、夢見る
ような瞳が一瞬たりとも僕を映すことはなかった。僕もあの人をいつもコスモス越しに見ていた。

 彼女の気をひくために描き始めた肖像画。たくさんの彼女を描いても、彼女は僕を見つめることはなかった。
 それは別れの瞬間すらも。気紛れに僕を抱きしめて、夢見るままにあの人は眠った。甘い香りに包まれたのが最後の想い出。
僕の記憶はそこで途切れている。あの人の顔すら思い出せない。ただ、僕の記憶にあるのはコスモスの中で微笑むあの人だけ。
そして…肖像画を描けなくなった僕だけが残された……。


 あれから、時は過ぎて。僕は稀代の芸術家と言われる存在になっていた。そんな評価は僕にとってはどうでもいいことだった
けれど。

 気の向くままに、カンバスに筆を滑らせ、言葉を紡ぎ、音を拾いあげてゆく。ただ、それだけのことだ。それが、それが時代に
受け入れられたに過ぎないのだ。

 だから、僕の名声を聞きつけて、ハイエナのように群がってくる連中に嫌気が差すのも当然のことだ。必然的に、僕は誰にも
邪魔されることのない静かな場所で気ままに絵を描くことを選んでいた。

 でも…僕はいまだに肖像画が描けない。淡いコスモスの記憶が僕の腕を鈍らせる。あれから、僕は知った。コスモスは宇宙を
示す花なのだと。八枚の淡いピンクの花びらは、宇宙の八方向を示すのだと。あんな小さな花なのに。

 だから、だろうか。あの人はコスモスにさらわれたのかも知れない。そんな気にすらなる。宇宙を示す花に心ごと奪われたの
かも知れない…と。

 どうして、こんなことを想い始めたんだろう。ここに来てからだろうか。
 ここは永遠の楽園。女王陛下の力の溢れる聖地と呼ばれる場所。僕は新宇宙を育てる女王候補たちの感性を説く教官として
招かれた。ここでの生活はそれほど悪くはない。けれど、良い、と言うものでもない。忘れていたはずの記憶を呼び覚まされる
のは…あまり気持ちのいいものではないから。

 だが、そこで迎えた新しい出会いによって、肖像画を描こうと、僕は再び、カンバスに向かい合うようになった。けれど…やはり、
指は動かない。どうしても…僕は描けない。


「セイラン様、こんにちは」
 明るい声に僕は振り返る。意志の強さを瞳に宿した栗色の髪の少女。新宇宙を育む女王候補。天使の名を持つ少女、それが
アンジェリークだ。

「やぁ、アンジェリーク」
 彼女にはもう一人の女王候補とは違った輝きを感じる。そして、僕はその輝きを気に入っている。
「見てください、綺麗でしょ」
 そう言って、君は手にした花束を僕に見せつけてくる。淡いピンクの花、遠い記憶を揺さぶらせる花、だ。
「コスモスかい?」
「ええ。マルセル様にいただいたんです。綺麗でしょ」
「そうだね」
 胸が痛い。宇宙を育む君に相応しい花だからだろうか。いつか君はこんな花ではなく、本物の宇宙をその手にするのだ。
「君によく似合うと思うよ」
「ありがとうございます」
 無邪気に君は喜ぶ。それがどれだけ、僕の心を苛むのか知らないままに。君もまた…宇宙に捕われてしまうのだ。僕に苦い
痛みを残して。

「じゃあ、セイラン様。差し上げます」
 無邪気に差し出される花。受け取るわけにはいかない。
「いいよ、別に……」
「コスモス、お嫌いですか?」
「違うよ。宇宙の花を手にするのはそれを統べるべきものに相応しいからさ」
「宇宙の花?」
 君は瞳をまん丸くする。僕もその反応に戸惑ってしまう。
「知らないの、コスモスは宇宙を示す花なんだよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。八枚の花びらは宇宙の八方向を示すと言われているんだ」
「へぇ…知らなかった……」
 そう言って、まじまじとコスモスを君は見つめる。そうか、知らなかったんだね。でも、今、君は知ってしまったから。僕の言葉の
意味も通じただろう。

「でも…セイラン様は花言葉はご存じじゃないんですか?」
「いや、あまり……。そりゃ…薔薇とか有名なのは知っているけどね」
 コスモスの花は避けて通ってきた僕だ。知るわけがない。そんな僕に君は笑顔でコスモスを一輪差し出す。
「じゃあ…私は花言葉の意味でセイラン様に差し上げます」
 心なしか、少し染まった頬。強引に僕に花を受け取らせると、そのまま駆け出してしまう。後には一輪のコスモスを持った僕
だけが取り残されてしまった。


「いらっしゃい、セイランさん。頼まれてた絵の具、出すから待っててや。」
 とりあえずコスモスを手にしたまま、僕は庭園にいる商人に頼んでいた絵の具を取りに行った。いつもの通りの愛想の良さで、
商人は頼んでいた絵の具を出してくれる。

「おや…コスモスですか? 綺麗でんなぁ」
「ああ…アンジェリークにもらったんだ……」
「セイランさんも隅におけまへんな……」
 揶揄するような商人の言葉。何が言いたいだろう。
「何が?」
「こんなところでとぼけてどうしますねん。『乙女の真心』をもらっといて」
「何が?」
「知らんのかいな。稀代の芸術家さんが」
 あきれたように商人が僕を見つめてくる。
「男が花に詳しくてどうするんだい」
「なにいうてまんねん。花かて、女性を口説くアイテムの一つでっせ」
「あいにく、僕には必要がないんでね」
「さいでっか……」
 出してくれた絵の具の代金を受け取ると、彼は簡単に包んでくれた。
「コスモスの花言葉や。『乙女の真心』は」
「え……」
「それくらい知っといても罰はあたらへんと思うで。特にあの子に関しては…な。あんたは知らんかも知れへんけど、日の
曜日にあんたへの贈り物、一生懸命選んでんねんからな」

 商人はそう言って、僕に絵の具を手渡してくれた。お見通しって顔をして。いつもの僕なら、しゃくな気がして、皮肉の一つでも
言いたくなるのに…なぜか言葉は出なかった。


「毎度おおきに!」
 明るい商人の挨拶を手に、僕は学芸感に戻っていった。ガラスの一輪挿しにコスモスの花をいけてやる。淡いピンクの花は
何もない僕の部屋を少しだけ明るくしてくれる。まるで…何も持たなかったはずの僕の前に現れた君のように。

「……」
 息を呑んで、カンバスを見つめる。真っ白なカンバス。幾度君を描こうとしても、コスモスの記憶の前に描くことができなかった
のに。

「アンジェリーク……」
 君の名を呟く。それは魔法の呪文のように。宇宙を示す、淡いピンクのコスモスの記憶は僕から肖像画を描くことを奪って
しまったけれど。君がその心のままに送ってくれたコスモスを前になら、僕は再び描けそうな気がする。

 捕われるのが嫌いな僕が捕われていた長く暗い迷宮。同じ花をもって、君はその迷宮に光を投げかけてくれた。
 スッと…カンバスに絵筆が下りてゆく。それは…言葉を紡ぐ時のように…音を拾いあげてゆくときのように…自然に。僕の指は
動き出した。


 今はまだ描き始めたばかりの君の肖像画。これが何を意味するのか…君は知らなくてもいい。ちゃんと書き上げたら、君に
見せてあげる。大丈夫、女王試験が終わるまでには完成する。君が送ってくれた花が傍に居る。僕を捕えていたはずの、淡い
ピンクの花が僕を解放してくれた。

 この絵が完成したら…僕は君に大事なことを伝えにいこう。きっと君は受け入れてくれるだろう。だって…君の心は宇宙でなく、
花言葉の意味にあるのだったら。


 君が好きだよ、と。

これ、去年に出したセイラン×アンジェ本からの再録です。すみません…。でも、ちょっとしか作ってなくて、私的には気に入ってる話
なので、再録しちゃいました。コスモスはね10月の誕生花だし。

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