いつかの約束



 ルーキウス王国史の中で、最も大きな混乱が治まった日の夜。カナンは思い出深い冒険者グッズを片付けていた。
 ひとまずの冒険は終わった。外に出たことで、今まで知ることのなかった世界を知ることが出来た。そして、思いがけ
ない苦難を味わって。限りない胸の痛みも知った。それは彼が尊敬して止まないご先祖であるルーシャスに比べると、
ささやかなものかも知れないけれど。
 色々な色の思い出と共に。いつかまた、冒険の日に出るために、今はこれをしまっておくのだ。
そう、いつかまた……。
 フワリ、と風がないのに、カーテンが揺れる。カナンは驚きもせずにバルコニーに視線を向けた。
「この国は随分不用心なんですね。こうやって、堂々とお城のバルコニーから侵入できるんですから」
「確かにそうだな。この国の民の気質とは言え、ナタブームのあの子分たちですら、侵入できるから
な。兄上にもう一度進言した方がよさそうだ」
 そう答えると、カナンはゆっくりと侵入者に視線を移す。そんなカナンの態度に侵入者は僅かな戸惑いを見せた。
「おや、驚かないんですか?」
「神出鬼没がおまえの十八番だろうが。今更、僕が驚いて何になる」
「成る程」
 軽やかな羽根のショールを僅かに揺らし、侵入者は、白鳳は艶やかな笑みを零した。だが、その瞳は笑っていない
ことにカナンは気付いていた。
「で、何の用だ? セレストに会いに来たのなら、場所は違う」
「それに坊ちゃんが会わせてはくれませんね」
「判ってるのなら、早く立ち去れ。僕はお前を許しはしないが、お前が捕まると色々とややこしい話になるから、手配も
かけてはいないしな」
 カナンの言葉に白鳳は形のいい眉を僅かにひそめた。その表情に白鳳がいつも連れているスイがきゅるると泣き声を
あげた。
「真実を話さなかったんですか。家族に、城中の者に無実の罪で追われたというのに」
「誰のせいだと思ってる。それに相手が覚えていない話を蒸し返して、お互いに後味の悪い思いをする趣味もないしな」
「坊ちゃんらしい」
 クスリと笑うその声は僅かに刺があった。
 シュル…。僅かに鞭がしなったと思った時には既に遅く。カナンの右手首には鞭が巻き付けられていた。
「……」
「叫ばないんですか? 今、大声をあげたら、衛兵が、いえ、セレストがとんでくるでしょう?」
「僕が叫ぶ前に、お前が何らかの手を使わない筈はない」
「察しがいいですね。でも、悪くはないですね」
 ぐいっ!
「うわっ!?」
 鞭ごと腕を引かれ、バランスを失ったカナンは床に倒れ込んでしまった。
「痛……」
 背中を打ち、顔をしかめるカナンの上に白鳳は馬乗りになる。
「油断してましたね、坊ちゃん……」
 冷ややかな声で自分を見下ろす白鳳をカナンは真っ直ぐに見据える。
「重い……」
「おやおや、こういう時の言葉じゃないですよ」
 ツ…と、白鳳の指がカナンの首筋を辿る。男性のものとは思えないくらいに長くて、細く、優美さすら感じさせるその
指がカナンの肌を泡立たせるにはそう時間がかからなかった。
「……!」
「意外とイイ反応をしますね。それとも、そう教えられたんですか」
「何を……?」
 戸惑ったように見上げて来る青い瞳に白鳳はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「だって、坊ちゃんはセレストに抱かれたんでしょう?」
「な……!」
 何を今更、と言わんばかりの白鳳の言葉に、カナンの頬が瞬間的に紅潮する。かまをかけて見るまでもなく。事実か
どうかなんて、それで判ってしまえる。
「坊ちゃんは本当に素直ですね。本当、忌ま忌ましいくらいに……」
 ゆっくりと白鳳の手がカナンの首にかけていて。力をこめれば、いつでもカナンの命を奪える状態になっていた。
「抵抗くらいしてくださいよ。面白くない……。今、坊ちゃんの命は私の手の中なんですよ、判ってないんですか?」
「……」
 ゆっくりと頭を振って、カナンは手を動かす。だが、その手は自分の首を締めようとしている白鳳の腕にではなく、
男性にしては白すぎる頬に伸びてきた。
「何のつもりですか、坊ちゃん?」
「それは僕の言葉だ。どこまでがお前の本音だ?」
「?!」
 こんな時でさえも、カナンの瞳は真っ直ぐに白鳳を見据えている。あの時と同じ瞳。迷いも何もを捨て去り、自分の心の
ままに、決意したあの時の……。
「どうして、あなたは……」
「ぐっ……」
 カナンの首にかけられた白鳳の手に力がこもる。
「あなたは無茶苦茶だ……。何も知らない子供のくせに、そんな風に強いままで。深い絶望を味わおうとしても、それに
抗って……。何もかもを手に入れて……」
 変わらない強さを持つ瞳が眩しすぎる。そして、苦しい。白鳳には決して出来ない真っすぐな生き方。
 それが羨ましいわけではない。誰もが皆同じ生き方など出来るわけがない。そんなことはとっくに判っている。だが、動き
出した苛立ちは留まる術を知らなくて。
「ぐ、……」
 自分の下で苦しげに呻いているカナンの顔色は失われてゆく。そうしているのは外ならぬ白鳳のはずなのに、何処か
他人事のように見つめている自分自身がいて。
「きゅるー」
「……!」
 スイの声に白鳳はハッと顔を上げ、反射的に手を離した。
 ゴホゴホと噎せるカナンの背中をさすってやる。矛盾した行動に自分でも笑ってしまいたくなる。
「大丈夫ですか、坊ちゃん?」
「それをお前が言うか?」
「……そうですね」
 あまりにもカナンらしい対応だ。ようやく呼吸が落ち着いたカナンは真っ直ぐに白鳳を見つめて来る。今度こそ瞳を反ら
さずに、白鳳はその瞳を受け止めた。
「賭をしないか?」
「賭、ですか……?」
 毒気を抜かれるというのはこのことかもしれない。あまりにも唐突過ぎる言葉だったから。
「最初に断っておくが、賞品はセレストではないからな」
「それは残念ですが」
「これはまだセレストには話してはいないが……。僕は冒険者になる。いずれ、この国を出ていくつもりだ」
「坊ちゃん?」
 何を言い出すのだろう。次男坊とは言え、国をカナンは王族だ。冒険者などという、危険で明日をもしれない道を歩む
など、許されるはずがない。
「僕が王子だからとか、そういうことで呆れているのか? まさか、セレストみたいなことを説いて聞かせる気じゃないだ
ろうな」
「セレストと同じ反応と言われて、嬉しいというよりは、良識ある人間なら、当然の反応でしょう?」
「おまえに良識を説かれてもなぁ……」
 論点がずれている。傍らでスイがきゅる…と困ったような声。スイから見ても、とんでもなかった
らしい。
「まぁ、そういうわけだ。次にお前がこの国を訪れた時、集めている男の子モンスターの種類の数が僕を納得させられる
ものになっていたら温泉きゃんきゃんをおまえにやろう」
「は?」
 いきなり何を言い出すのか。戸惑う白鳳を気にすることなく、カナンは得意げに言葉を続けた。
「ただし、その時に僕が国を出ていたら意味はない。せいぜい頑張るんだな」
「私が断るとか、あなたが満足できないとか言うことをかんがえないんですか?」
「世界中の男の子モンスターが必要なのだろう? 温泉きゃんきゃんを確実に手に入れる方法だ。それでも断るのか?」
「セレストから聞いたんですね」
 彼ならば、カナンに事情を話して聞かせそうだ。事情を知った上でこう持ち掛けてきているのだ。カナンらしいやり方で。
「もし、僕が満足できる数じゃなかったら、僕の出奔に協力してもらう。その報酬に温泉きゃんきゃんをやろう」
「それは賭ではなくて、脅迫ですよ」
 苦笑と溜息が同時に出る。
「セレストの苦労が一気に判る気がしましたよ……」
「どういう意味だ」
「言葉通りですよ」
 きっぱりと答え、白鳳は改めてカナンを見つめる。世間知らずな割に妙なところで頭が回って。当人の自覚のない部分で
周囲を巻き込んでいる。
「でも……」
「何だ?」
「いえ、なんでもありませんよ」
 言えない。だからこそ、セレストが目を離せなくて、心魅かれて。どんなにあがいたところで敵わ
ない。
「セレストが聞いたら、泣きますよ……」
「そのくらいで僕が怯むとでも思っているのか?」
「いいえ。思ってはいませんよ、カナン」
「え……?」
 戸惑いに目を丸くする。途端にあどけない表情。まだ、少年の域を出ていないその顔立ちは整っているが、綺麗というより
可愛いと言った方がいいだろうなどと考えてしまう。
「今、お前……」
「ええ。名前でお呼びしましたよ。カナン、と」
 今度は声に甘さを潜ませ、極上の魅惑的な笑みを添えて。傲慢だけれど、無防備な少年はきょとんと白鳳を見つめている。
いや、動けなかったのかもしれない。
 鮮やかで艶やかなその笑みは甘い鎖となって、カナンを捕らえて離さない。声すらあげることを忘れて。
「もしもあなたに……」
 肩に手をかけられ、顎を捕らえられて。紅玉の瞳に魅入られる。コクリ、と息を呑む。
 コンコン。礼儀正しいノックの音に現実に引き戻された。
「カナン様、失礼します」
 ガチャリと扉が開いて、セレストが入って来た。
「!」
 驚愕の後に訪れるのは微妙な沈黙。この空気に逸速く反応したのはやはり白鳳であった。
「不粋ですよ、セレスト」
 あまつさえ、カナンをその腕の中に閉じ込めて。未だに呆然としているカナンはされるがまま。
「白鳳さん、その腕を離してください」
 言葉は丁寧だが、その声と表情は鋭い。
「嫌、だと言ったらどうします?」
「仕方ないですね」
 剣を抜く構えを見せるセレストに白鳳は軽く笑みを漏らした。
「愛しいあなたにこれ以上嫌われるのは得策ではありませんね。おいで、スイ」
「きゅるるー」
「じゃあ、お名残惜しいのですが……」
 ふわり、と柔らかいものがカナンの頬を掠めた。
「あ……」
 すぐに白鳳の腕から解放させられる。
「カナン様!」
 すぐにセレストが飛んで来るが、とっくに白鳳はバルコニーに。
「それでは、お二人とも」
 月明かりの下で、絶妙な笑顔を浮かべる姿は悔しいくらいに絵になっていた。そして、闇に溶けて
行った。
「行ってしまったな」
「そうですね。それより、お怪我はありませんか?」
「いや……」
 カナンは首を振るが、不意にセレストの顔が厳しくなる。
「セレスト?」
 滅多に自分に向けられることのないその表情にきょとんとセレストを見上げる。
「首を締められたんですね」
「?!」
 告ぐべき言葉を探そうとするカナンの首筋をセレストがふれる。僅かに赤くなったそこは確かに白鳳にされたことを物語って
いて。ごまかすこともできない。
「どうして、叫ばなかったんですか! もしものことがあってからでは遅過ぎるんですよ」
「……すまない」
 痛いほどに真剣な眼差には誠意で謝るしかない。
「でも、ご無事で良かった……」
 安堵の溜息を漏らすセレスト。ダンジョンの中では対等なパートナーであり続けることを誓った。だが、ダンジョンの外での
ポジションはうやむやのまま。セレストは従者としての立場を崩そうとしないだろう。カナンが王子であるかぎり。
(いつか、その日が来たら……)
 まだ先の未来だ。なるようにしかならないと考えるしかない。
「カナン様?」
 心配げな顔でセレストがカナンの顔を覗き込んで来る。
「何でもない。僕はそろそろ休む」
「ならば、今宵はお傍にいさせてください」
「心配しなくても、もう来ないぞ」
 やはり、守られる立場にしかさせてもらえないことに抗議の声色を添えて。
「私がカナン様のお傍にいたいからではいけませんか?」
「おまえ……」
 こんなことを言われたら、断ることも出来ない。
「勝手にしろ」
「はい。勝手にします」
 昔語りを聞いて、眠りの時を迎えたあの頃とは違うけれど。互いの存在が掛け替えもないことには変わりないから。
「ルーシャス様のお話を聞かせて差し上げましょうか?」
「馬鹿者」
 そう言葉を交わしあって、笑顔を交わす。今はこの時間がとても心地良かった。


 国境付近には最低限の見張りの兵しかいない。ただの旅人の振りをして、ルーキウス国を後にする。
「急がないとね、スイ。あの坊ちゃんはこうと決めたら、梃子でも動かないでしょうし」
「きゅるー」
「全くとんでもない脅しを賭だと言うんだから……」
 そう言いながらも、その表情は決して困ってはいない。むしろ、お気に入りを見つけた子供のよう。
 実際、セレストとは違う魅力がカナンにはある。子供だから、と侮っていたのかもしれない。
「次に会う時を楽しみにしていますよ」
 そう呟いて、白鳳は楽しそうに微笑した。


 無意味に長くてすみません。CDを聞いて、石田さんの白鳳の声によろめいた結果です。白鳳×カナンも好きなのかも。


王子部屋