小さな手
『私の手を握っててくださいね。絶対に離さないでくださいね』
そう幼い頃のカナンに何度も何度も言い聞かせたのはやはり幼いセレストだった。好奇心いっぱいの第二王子は歩き
始めた途端に糸の切れた風船のようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりで目が離せなくて。カナン付きの乳母たちの
悩みの種であった。それはカナンの守役のセレストにしても同じこと。小さなカナンに何度も言い聞かせたものだ。
互いにまだ小さな子供の手だった。それでも、カナンにとってはとても大きな手だった。横に並んで歩くセレストは幼い
カナンから見れば、とても大きくて、早く追いつきたいと思っていた。
『疲れたら、いつでも仰ってくださいね』
いつだって、セレストはカナンのペースにあわせて歩いていた。そうしなければ、カナンが機嫌を損ねるとわかっていた
からだ。カナンが疲れて、ため息をついたら、躊躇いなくカナンを負ぶることもあったけれど。基本的にはいつもセレストは
カナンと手をつないでいた。まるで、そうすることで安心を得るかのように。
その手はいつも暖かくて。ずっと握ってくれていると思っていた。時々嫌がって、むずがるカナンにセレストはこう言いも
した。
『離したら、カナン様と離れ離れになるかもしれませんよ?』
そんなことはあるはずもないのに、それが怖くてぎゅっとセレストの手を握った。それは甘酸っぱい思い出として、今も
鮮やかに心に残っている。
「なのに、馬鹿者が……」
セレストの部屋でカナンは一人愚痴る。エリックとシェリルの結婚騒動は紆余曲折を経て、夕方にようやく片がついた。
今頃、未来の花嫁の父と母、未来の花嫁、花婿で団欒とは言いがたいが、食事をしているだろう。大団円である。なのに、
カナンの心は晴れない。
「手を離すなといったのはお前だろうが……」
今頃、父親の後始末に駆けずり回っているだろうこの部屋の主に思いをはせる。手をつなぐあの二人に触発されたわけ
ではない。ただ、手をつなぎたくなったのだ。ぎゅっと握り締めるあの手が何だか懐かしくて。それなのに、離すようにいうだ
なんて。
セレストの躊躇うところはわかる。だから、どんなにカナンが仕掛けようとしてもはぐらかそうとすることも。
「離したら、本当に離れ離れになるぞ」
呟いて、少しだけ胸が痛む。もうはぐらかさせないと決めた。自分の本気を見せるだけだ。あの時みたいに手をつないで
並んで歩けるかどうかはその結果しだいだけど。どんな結果になっても後悔はしない。
それでも、右手を見つめて、カナンはため息をつく。久しぶりに触れたあの手は幼いセレストのそれではなく、剣の扱いに
長けた騎士の手になっていた。そして、自分もまた幼い子供の手ではない。
それでも、その手のぬくもりは何も変わってはいないのだ。
カナンはそのぬくもりを追うようにそっと手のひらに口付けた。
1.5ネタです。小さなカナンの手を引いて歩くセレストが不意に脳裏に浮かび……。