僕には僕だけの青空がある。
物心ついてから、カナンが手を伸ばせば、それはすぐ近くにあった。決して届かない遠くの空ではなく、手を伸ばせば、伸ばした手ごと受け止めて、抱きしめてくれる暖かい青空。とても、鮮やかな天上の青……。小さかったカナンにはそれは何よりの大事な宝物だった。家族と同じくらいの近い存在の大切な、青空。それは人の形をした青空。カナンの大好きな青空だった。
どこまでも広がる秋晴れの青い空。雲も空も高く感じられる。こんな天気のいい日に、部屋の中に閉じこもるような性格の持ち主ではないカナンはいつものように部屋を抜け出し、草原の方まで来ていた。この時期はいつも、そうだ。大地に寝転んで、遠い空を眺める。見上げる空は遠すぎて、カナンの手には届かない。
「くぷー」
ふと、思いついて、幻獣を召還してみる。カナンが呼び出すことのできるたった一体の幻獣。鮮やかな青空の色。カナンだけの青空と同じ色。見上げる青空とも同じ青のはず。けれど、カナンにはまったく違う色のようにも感じられた。
「なぁ、お前と同じ空の色なのに、どうして違うんだろうな……」
「くぷー?」
問い掛けたところで、幻獣は多分何も考えていない。ころりと身体を傾けるだけ(首をかしげることができないからである)その様子は可愛いけれど、なんだか物足りない。去年までは一人でこの空を見上げていた。彼だけの青空がカナンの視界に広がるまで。
「はやく、迎えに来い、馬鹿者……」
「くぷー」
ポツリと呟いたカナンに同調するかのように幻獣も声を上げる。幻獣は召還者の精神を強く映し出す。青空の色なのもそのせいだ。
「おいで」
「くぷー」
手招きして、コツンとおでこをくっつけて。そして、その手におさめて、透明な幻獣越しに青空を見上げる。こうして、地面に寝転がっていると、地面と青空に抱かれているような気がする。それは開放感に満ち溢れていて楽しいけれど。けれど、物足りない。いつも、そう。一人でいる開放感よりも、青空と大地に包まれる安堵感もいい。こうして、一人ではなく一緒にいてくれる相棒(といってもいいのかどうかはわからないが、そう言った存在もある)自由な時間。城の中で拘束されているよりも楽しい時間。そのはずなのに、物足りない。あの青空では物足りない。
「つまんないな……」
軽く呟いて、カナンは幻獣をその手に抱き寄せて、そっと瞳を閉じた。秋晴れのこんな日は…少しばかり眠気にも誘われる気がする。退屈は眠気でごまかしてしまえばよい。そう、かってに結論付けて、カナンは瞳を閉じた。
どれくらいそうしていたのだろうか。時間にしてみれば、長い方だったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。不意に影がさした気がした。そして、振り降りてくる声。
「何をしてらっしゃるんですか、あなたは……」
呆れと怒りと苦労性が一緒くたになった声。目をあけると目に入るのは鮮やかな天上の青。
「おはよう、セレスト」
「おはようじゃありません。勝手に抜け出したかと思えば、こんなところで寝ていらしたりして……。あなたには一国の王子としての……」
いつもどおりのお説教モード。聞きなれて入るが、鬱陶しいのも事実。心配してくれるのはわかるし、それが彼の性格だけれども。セレストが早く迎え(探し)に来てくれていれば、カナンはここで昼寝はしなかったわけだ。この時期は大抵ここに来ているのだ。それくらい、察しろと思うのだ。だから、カナンは手っ取り早くこの場を収めることにした。
「くぷー」
「っと……」
ガバッと起きて立ち上がると、カナンはそのまま幻獣をセレストに突きつける。目の前に幻獣を不意に近づけられ、セレストはとっさに言葉を飲み込んでしまう。幻獣の愛らしくもつぶらな瞳と目が合うと、何故だか黙ってしまうのは人として、ある意味正しい姿なのかもしれない。けれど、すぐに気を取り直した。
「カナン様、無防備に幻獣を召還なされては……。もし、誰かに見つかったら……」
「お前以外の人間に見つかったら、兄上の幻獣が一匹ふよふよと風に飛ばされたから、探しに来たとでも言う。この時間は召還の訓練をなされているだろうしな」
「……あなたという人は」
がっくりと肩を落とすセレスト。こういう時の頭の巡りはカナンの方がずっと早い。策略を巡らせて、セレストがカナンに敵うことはめったにないのかもしれない。
「カナン様はそんなにこの場所が好きなんですか?」
この時期は大抵ここに来ていることはセレストも百も承知だ。おやつを持ってきて、部屋にいないのを確認して、まず探しに来たのはここだからだ。
「空をずっと見てた。けど、欲しい空はここにはなくてな、欲しい空が来るのを待っていた。な?」
「くぷー」
同意するように幻獣も声を上げる。何のことやら、といった顔をするセレストに対し、カナンはにっこりと笑う。
「わからないのか? 僕はずっとここで待ってるんだぞ?」
「わかりませんよ……」
カナンの言葉はどこか抽象的すぎて、セレストにはついていけない。埒があかないと踏んだのか、カナンは手を伸ばして、鮮やかな青の髪を人房だけつまむ。
「ここにあるだろう? 僕の青空が」
「青空って…私が?!」
カナンの言葉にセレストは戸惑ってしまう。
「僕の大好きな青空だ」
にっこりとカナンは笑う。何ともいえない、敢えて言うなら、愛情にあふれた表情。
「僕だけの青空だ。手を伸ばしたら、ちゃんと届く。暖かい青空だろう?」
そう言って、カナンはセレストに抱きついてしまう。
「カ、カナン様……」
真っ赤になりながらも、セレストはカナンを抱きしめ返して。何よりの暖かさを感じて、カナンは安堵する。普段は気になる体格さも今は自分を包み込んでくれる空の広さと思えば、やはり嬉しい。本当の空よりもずっとずっと、大切な青空。そんなカナンに微苦笑をもらしながら、セレストはそっと囁きかける。
「あいにく私はあの空と違いますから、こうして抱きしめるだけではすまないかもしれませんよ?」
それは忠告のつもりで言ったのだろうか、とカナンは思案する。何の意味もない、甘い睦言にしか聞こえないといったら、どんな顔をするのか。考えるだけで、カナンはうきうきする。
「それは上等だと思うぞ?」
にっこり笑う。それは確信犯の笑み。セレストは困ったように笑い、カナンのおでこに自分のそれをコツンと重ねる。
「幻獣君がいますよ?」
「むぅ、それは困るな」
「ですから、今はお説教モードにしましょうか?」
「それは嫌だ。お前は僕の青空なんだからな。もう少し、僕を包み込んでいろ。その後の説教のことは後で考えてやる」
プイ、とすねたようにカナンは顔を背ける。それが何よりも可愛いと思ってしまうのと、少しばかりの意趣返しが叶ったのとで、クスリ、と微笑して。
「わかりました……。少しだけですよ?」
そう言いながらも、抱きしめる腕の力が強まる。それが何よりも嬉しいとカナンは思う。どんな世界の空の色だって、きっと今、自分を包み込む青空には勝てはしない。何よりも鮮やかで、何よりも暖かく、愛しい、大切な青空。その青空に包まれている自分を何よりも幸福だとカナンは思った。
|